前回、「大神さまの光熱」の体験について書いた。大神さまは「在る」。そして、我々はその光熱によって「在らしめられている」。そのこととともに、あの光熱の中で心底驚かされ、深く腑に落ちたことがあった。
それは、「救い」というものについてだった。
「救われる」とは何だろう
「救い」「救済」とは、どのように捉えられているのだろうか。
少なくとも言えることは、その前に「救われていない状態」があるということだ。苦しみから救われる。危険から救われる。罪から救われる。迷いから救われる。病や死から救われる。「救われていない状態」から「救われた状態」へ移ることを、我々は救いと呼んでいるのではないか。
「どうすれば救われるのか」という問いは、古今東西、繰り返されてきた。何を信じるのか。何を行うのか。どのように生きるのか。祈り、修行、信仰、智慧、善い行い……。宗教や文化によって、その答えは実にさまざまだろう。
いずれにしても、救われたいと思っているかぎり、少なくともその人は、自分を「まだ救われていない」と感じている。もし本当に救われているのなら、「救われたい」と求め続ける必要はないはずだ。
そう考えると、根本的に救われている状態とは、救いを求めなくてよくなる状態なのではないか。
救われたのではなく、すでに救われていた
あの光熱の中で起きたことは、まさにそれだった。
「ああ、これで救われた」と感じたわけではない。何か新しいものを手に入れたわけでもない。
すでに救われていたことを、思い出した。
前回、「大神さまの光熱を浴びた体験……いや、浴びていることを思い出した体験」と書いた。光熱は、そのとき初めて注がれたものではなかった。ずっとその中に在った。ずっと在らしめられていた。そして、本質において、ずっと救われていた。
そのことが、疑いの余地なく、深いところで腑に落ちた。
「もう救われていた」
救いを求めてどこかへ行かなければならないのでもなかった。何かを成し遂げることで救われるのでもなかった。
もともと、我々は光熱の中に在った。
そのことが分かったとき、深いところから大安心が広がった。
救いに条件はあるのだろうか
何かを信じなければならない。何かをしなければならない。あることをしてはならない。それを守らなければ救われない。こうした考えを、本質的な救済の条件として受け取るなら、その前提にはやはり、「今はまだ救われていない」という見方がある。
けれども、「我」が本質においてすでに救われているのなら、救いを得るための条件は、本質的にはない。
ここでいう本質的な救いとは、現界を生きる「吾」が、病や苦しみ、さまざまな問題から免れるという意味ではない。その奥にある「我」が、大神さまの光熱の中に在らしめられているという、より根本の次元での救いを指している。
祈りや宗教儀式がまったく無意味だとか、日々善く生きる必要がないとか、何をしても同じだという話ではない。ただ、それらをしなければ本質的に救われない、ということではない。
この違いは大きい。つまるところ、生きる姿勢そのものが変わってくる。
救われるために生きるのか。
すでに救われている者として生きるのか。
同じ行為をしていても、その立つ場所はまったく違う。
宗教が「救い」を作るものなのか。それとも、すでに在るものへ向き直り、それを思い出すための道となるのか。この問いについては、宗教そのものを考えるところで改めて掘り下げたい。
現界で何を得ても、本質的な救いは作れない
同じことは、宗教以外のことにも言える。
財産を得ること。地位を得ること。人から認められること。知識を得ること。能力を磨くこと。成功すること。現界では、我々は多くのものを求めながら生きている。それらには、それぞれ現界における意味がある。生活を安定させることも、人の役に立つことも、学ぶことも、成長することも、現界を生きるうえでは大切なことだろう。
けれども、それらによって「我」の本質的な救いが新しく作られるわけではない。逆に、財産を失ったから、失敗したから、人から認められなかったからといって、それによって「我」の本質的な救いそのものまで失われるわけでもない。
少なくとも、本質的な救いを作り出すという意味では、現界で何をしようとも無力なのだと思う。
けれども、現界が無意味なのではない。
救われるために現界を生きる必要がないことと、現界を生きる意味がないことは、まったく別だ。このことも、いずれ「なぜ現界を生きるのか」という問いの中で改めて考えてみたい。
それでも、吾は苦しむ
「すでに救われている」ということは、「苦しみなど存在しない」という意味でもない。
現界を生きる吾は、苦しむ。病気にもなる。老いる。大切なものを失う。思いどおりにならないこともある。人を傷つけることもあれば、自分が傷つけられることもある。不安も、怒りも、悲しみもある。その苦しみを、「本当は救われているのだから気にする必要はない」と片づけるつもりはない。吾が生きる現界の苦しみは、現界の現実として確かにある。
ただ、吾が苦しんでいることと、我の本質が救われていないことは、同じではない。
あの光熱の中で感じた救いは、苦しみがなくなったから生じたものではなかった。人生の問題がすべて解決したからでもない。もっと深いところで、
我は、すでに救われていた。
そのことが分かったのだった。
我々は、すでに救われている
ここまで書いてきたことのうち、直接体験したと言えるのは、まず自分自身についてのことだ。自分は、大神さまの光熱の中で、すでに救われていたことを思い出した。
では、そこから「我々は、すでに救われている」とまで言えるのだろうか。つまり、自分だけでなく、すべての人がすでに救われているのだろうか。さらに言えば、人間に限らず、あらゆる存在についてそう言えるのだろうか。
ここについては、体験そのものから少し出る考えも含まれている。それでも、自分は「皆がすでに本質的に救われている」と信じている。
あの光熱の体験の中で、ありとあらゆるものが、大神さまの光熱の中に在るように感じられたからだ。少なくとも本質においては、大神さまの光熱の中に「在らしめられている」ということは、すでに「救われている」ということと同じなのではないか。
そして、そのことに気づいたとき、それまでとはまったく違うところから、思ってもみなかった変化が生まれた。
次は、そのとき見えてきたものについて考えてみたい。